2013年10月26日

東牟婁郡請川村の須川氏について(口語訳3)

東牟婁郡請川村の須川氏について(口語訳3)」をUP。

 大和国吉野郡野迫川村北股は、高野奥立入荒神が嶽に遠くなく、なかなかの寒村らしい。そこの小学校の教員の杉田定一氏は菌学上、予と文通する。この人は同国笠置山に近い柳生藩の士族の出で、今月1月『柳生六百年史』を著し、1本を予に贈られた。その内に偶然、須川長兵衛という名が見えたので、予は紀州の須川長兵衛のこと、またその支流である請川の須川氏諸家のことなどを筆して贈ったところ、3月になって『須川氏について』という全11葉の謄写版刷の冊子を贈られた。

 それを見ると、大和の添上郡東里村大字須川という地がある。村役場がある所で、笠置山脈中の山村で、奈良の東方3里、関西線笠置駅から西に約2里にある。須川氏は代々この地の住人で、その初めて見えるのは、『多聞日記』で、「天文10年、細川氏の家臣木沢長政が三好長慶と戦ったとき、柳生子爵家の祖である美作守家厳(いえよし)が長政を援け、須川氏も長政を援けた。天文12年4月16日、三好方である筒井順昭(山崎合戦に両端を持した日和見の順慶の父)が須川を攻める。須川に城が二つあり、この日に2つとも落城し、須川藤八(城主であろう)親子始め討死に、筒井方の手負いも限りない。筒井の重臣中坊氏らも戦死する。筒井勢は6000余騎であるのに、須川勢はわずかに50〜60人で立て籠り防戦した。弓矢を取っての名誉は須川を越えることはできない。まことに張良をもあざけるべき武士であることだ」と誉め立ててある。


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posted by てつ@み熊野ねっと at 11:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 南方熊楠のキャラメル箱更新履歴 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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